2015年02月28日

日本古来のスピリチュアリティと現代科学との符号

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 子供の頃に、明治生まれのお年寄りからいろいろな事を教えてもらった。
 10代の頃には、そういった話は非科学的だと退けていたが、歳を重ねるごとに真実味を実感するようになってきた。

 「耳は最後まで残る」という言葉も何人もの人からよく聞いた。息を引き取る寸前まで、あるいは息を引き取った直後にも耳は聞こえていると言うのだ。最近では、心肺停止以降に脳波が動いているという報告を聞くようになった。

 また、「同じ1つの所からやってきて、死んだ後はまた同じ1つのところに帰っていくのだ」と言う話もよく聞かされた。臨死体験が報告されるようになって、脳波の反応がない第二次臨死体験の報告もされている。脳波がかすかにでも反応している第一次臨死体験は、脳が作り出した幻覚かもしれないと言う指摘がある。それに対して、脳波が反応していない第二次臨死体験は、とても鮮烈な体験だと報告されている。そしてその報告は、先に書いたように同じ1つの所へと帰っていく絶対的な体験だと言うのである(『「臨死体験」が教えてくれた宇宙の仕組み』木内鶴彦著)

 そして木内氏の話は、脳溢血で倒れた脳科学者ジル・ボルト・テイラーの報告ともほとんど符号するのである(『奇跡の脳』ジル・ボルト・テイラー)

 「『奇跡の脳』レヴュー」  

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2015年02月27日

銃の命中率アップにもマインドフルネス!?

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 いまやマインドフルネスが非常に一般的になってきている。「マインドフルネス」を知ったのは、1985年に私の知人がティク・ナット・ハンを日本に招聘した際、八ヶ岳での4泊5日リトリート受け入れの総監督をした時である。その時の通訳が藤田一照氏だった。

 ハワイの友人の話によると、スピリチュアル寄りの人々は「瞑想やマインドフルネスを道具や手段としてはいけない(すなわち、それ自体が目的であり手段でもある「道」であるという立場)」に対して、心理学寄りの人たちは人々がより健康や幸福になるための手段としてより広く「使えるもの(すなわち道具、手段)」とするのが最良だと捉えているという。簡単にいうと、瞑想をビジネスに使ってはいけない派と、ビジネスでも使って豊かになろう派に二分されているというわけである。

その極め付けが、アメリカ軍部では銃の命中率が高まるとしてマインドフルネスが導入されているという報告もある。

それに対して、脳の研究家リチャード・デビッドソンは、瞑想やマインドフルネスの実践で明らかに脳に変化が見られると報告し、それは「慈悲心」が養われる変化だと結論付けている。

「私たちのデータは、心の訓練の実践が、長期にわたる変化を脳に誘発することを示しています。」リチャード・デビッドソン(世界的トップ脳科学者のひとり。2006年アメリカ”TIMES”誌に、世界でもっとも影響力のある100人に選ばれた一人)
仏教僧侶たちは、心の属性や、慈悲や慈愛、共感などといったポジティブな感情は、鍛えることができるスキルであると考えており、科学がその裏付けを証明しはじめている。(出典:カナダの新聞 The Vancouver Sun 紙記事、2009年9月25日)
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二河白道

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 人生には辛いこともあるが、喜びもたくさある。しかし、その喜びや幸せも永遠不滅ではないという観点から、釈尊は「人生は苦である」と説いたのだ。

 浄土教に「二河白道(にがびゃくどう)」という教えがある。ある旅人が盗賊に命を狙われ、必死に逃げて来たら崖っぷちに行き着いた。そこには猛獣や毒虫がたくさんいて、まさしく進退窮まった。崖を見ると、左方の南側は火の河、かたや右方の北側は水の濁流である。その中央に白く細い道が向こう岸まで伸びているが、その道にも炎と濁流は被さって来ている。
 そこで迷っていると、岸のこちら側からは釈迦が「行け」と言い、向こう岸からは阿弥陀が「来い」と言う。旅人はその声だけを信じ、ただ一心にその細い道を渡るのだ。

 盗賊、猛獣、毒虫は火宅であるこの世界と、われわれの五感を喩えている。そして火の河は怒りや憎しみ、水の河は貪りや執着の心を喩えている。
 これは、法然上人が心の師と仰いだ中国の善導大師が著した『観経疏』(『観無量寿経』の注釈書)に記された喩えだ。

 葬儀の際に、私の立つ位置はこの線上である。どんな悲しみや激情が渦巻こうが、決して「そこ」に一緒に立つことはなく、しかも全体がこの白道に支えられているという場に立つのである。

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二河白道


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2015年02月26日

経典のこと

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 先日お経のことを書いたので、お経の解説をしておきたくなった。

 「経」の語源であるサンスクリット語のsutra(スートラ)が漢訳されたのだが、「経」はとても正しい訳だといえる。というのも、sutra が「経糸(たていと)」を意味するからだ。

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 写真のような貝葉(ばいよう)と呼ばれる椰子などの植物の葉を加工して、紙の代わりの筆記媒体に糸を通して用いた。チベットでは、職人に版画を深く彫らせるため、彫った箇所に砂金を入れて手当としたと、学生時代に教授から聞かされた。

 大学の図書館に収蔵された経典に触れたとき、それぞれ単体ではバラバラの貝葉も経糸が通ることでひとつのまとまりを見せ、全体としてある方向を指し示すのだと感じた。

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2015年02月22日

許すことで許される

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 長い人生の中で、どうしてこんな思いをするのだろうと、思うときがあるかもしれない。
 なぜいつも似たような人から、同じようなことをされるのだろうと、悲しくなることがあるかもしれない。
 その原因を自分の中に探ってみると、子どものころに親から受けた仕打ちのせいだと思い当たるかもしれない。しかし、よくよく考えてみると、その親も子どものころに不条理な仕打ちを受けたかもしれない。そしてさらにその親も、その親の親も…

 お経の中に、このような一節がある。

我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋痴
従身語意之所生 一切我今皆懺悔

私が昔からなしてきた様々な悪しき行いは、
すべて始まりもない太古からの貪りと怒りと愚かさを原因として、
身体と言葉と心によってなされたものである。
それら全てを私は今みな懺悔する。

 上は一般的な解釈だが、「悪業」の原語 durkarma は、悪い行いというだけではなく、自分に起きるよくないこと全体を指している。そして、不幸の対局にある幸せも、永遠ではないという視点からはdurkarma 「悪業」といえると解釈できる。

 それはともかく、あらゆる事がらは、「始まりのない、貪り(貪欲)、怒りと智慧のないこと」に由来し、自分の行動や言動や思いに従って生じているというのである。「始まりのない」ということは、誰かや何かを原因とするわけにはいかず、自分の中の、貪りと怒りと智慧のないことを見つめる以外にないのだ。そのことを認め、そしてすべてを許すことで許されるのではないだろうか。

 この懺悔文を唱えて、そしてはじめて経典が開かれるのである。

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