2015年08月23日

実るほど頭を垂れる稲穂かな「詫び/侘び」再考

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その動作の対象を想定している「謝る」に対して、「詫び」というのは内的な心の姿勢を指しているのではないだろうか。そういう意味で、「詫びる」という動詞は限りなく自動詞的である(尤も、「謝る」も、「詫びる」も文法的には自動詞であるが)。そして、自ずと頭が垂れるからこそ、そこに美しさが滲み出るに違いない。その心理的動作には対象が存在せず、内的な佇まいとしての美しさが現れ出るのだ。

仏像やヨーガの印、jnana-mdra(ジュニャーナ・ムドゥラー、智慧の印)は、人を指す人差し指を自分に向け、宇宙の真理の象徴である親指につけて輪を作る。そこに智慧がなければ、そのことでいくら苦しんだとて、また同じことを繰り返すのだ。何故か? 苦しんだことを免罪符として、智慧の発動を妨げ、また眠るからである。

ほとんどの場合、「手放す」ことには恐怖が付き纏う。自らの非を認めるのは、強く握りしめている指を一本一本引き剥がされるような感覚を覚えるものである。
しかし、それまでの価値観や、譲れないエゴを手放すことによって、失われるものは何もないどころか、そうして初めて「赦し」の何たるかを自らの深いところで識るのである。

傷つく恐怖を源とする防衛は、どんどん武器や理論でその武装を強固にして行く。その行く先には決して平安も平和も存在しない。対立・対抗を前提としているからである。

自ら頭を垂れ、自らを拝む道しか残された道はないのだと識ったときに、平安と平和への道が拓かれるのではないだろうか。

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posted by Shukai at 08:07| 東京 ☁| Comment(0) | 祈り・儀式・佛教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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