2016年11月27日

呼吸が止まったら…

_/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/


 昨日四十九日を済ませたお宅からの電話が鳴った。
 「少しお教えいただきたいのですが…」と、何やら話しにくそうなご長男の声が聞こえた。

 78歳で亡くなられたお母様は、十二単の着付けをされたり茶道も嗜んでいらした方で、昭和天皇即位の際には皇居に上がられてお茶のお持て成しも手伝われた方だった。

 「実は、母が亡くなる前の病院で、生体モニタに異常があって看護師さんに告げたところ、呼吸が止まったらドクターを呼びますと言われて…」と、口ごもるように仰った。ご臨終の後、その看護師さんは「配慮が足らない発言でした」と謝罪されたというのだが、そのことを自分の中でどう消化していいかわからないご様子だった。

 実家で老人ホームもやっているので、看護師やドクターとのお付き合いもあり、どのような様子か多少の想像はつく。おそらくこれ以上の処置はできないという状態で、いつその時が訪れてもおかしくない状況だったのだろう。それにしても、家族にとってみればいつまでも生きていてほしいと思うのが人情なのもよくわかる。

 「何を言えるだろうか…」
 このような時には、いつもそう思う。

 咄嗟に思い出したのは、よくお通夜でする「三つのことば」の話と、救急救命士マシュー・オライリーの話だった。

 人はいろいろと失敗もするが、その瞬間瞬間でその人なりに精一杯のことをしている。そのことさえも自らのこととして全て受け止めて、人は肉体を離れるに違いない。私にはどうしてもそのように思えるのだ。

「三つのことば」⇒クリック



マシュー・オライリー「私は死ぬのでしょうか?」


IMG_8307.jpg


_/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/

<<リンク>>

森になる:PC HP

樹を植え自らが森になり大地をまもる

天龍院 千代田別院
歴史ある厳かな法要

Facebook

コンタクト
shukai755@msn.com

↑クリック

_/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/
posted by Shukai at 19:20| 東京 ☀| Comment(0) | 祈り・儀式・佛教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月14日

不明の逝去日

_/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/


 昨晩のことだ。 そろそろ床に入る準備をしようかと、片付け始めたところに電話がなった。ときどき依頼のくる葬儀社からだった。この時刻の電話。おそらく急で困っているのだろうと電話にでると、案の定明日の午後だという。しかも場所は静岡県の裾野市だ。午前は川越での仕事がありすぐ断ろうと思ったが、とても困った様子だったので、いつも名代(みょうだい、代理)を勤めてくださる上人に当たってみると一旦電話を置いた。
 残念ながら明日は仕事が入っているとのことだった。断りの連絡をするつもりでダイヤルしたが、開始時刻と住所を詳しく聞いて、移動時間を調べるとギリギリ間に合いそうだったので私が引き受けることにした。

36歳の男性の、非常に簡便なお葬式の依頼書が届いたあと、すぐまた電話が鳴った。「ご逝去日がわからないので、明日現地でお伝えします」とのことだった。人の最期は本当に様々だと思いながら、遺族であるご両親と連絡先となっている妹様の心中を察した。
 夜遅いが、一時も早い方がいいと思い電話でご挨拶をした。明朝豊田市を出て裾野市に向かわれるとのことだった。

 川越での法要を済ませて圏央道から東名を抜けると、裾野市の斎場に思ったより早く着いた。しばらく待っていたところに葬儀社の車が到着した。顔つきが重苦しく暗いのは当然だろう。葬儀社の方のお仕事も想像以上にたいへんに違いない。
 まだ時間が少しあったので、待合室でご両親と妹様とに少しお話させていただいた。いくつかのお話をすると、お母様と妹様の目から大粒の涙が溢れ出た。私より少し年上に見えるお父様はというと、まだ事態を受け止めきれず何をどう考えていいのかというご様子で、目が宙を泳いでいるような面持ちだった。
そういえばまだご逝去日を聞いていなかった。棺の前に立つと白木の位牌には「平成二十八年九月」とだけ書かれてあった。

 私たちはどんなことも、最期にはすべてを受け止めなければならないときを必ず迎える。その予行演習のためにだけ、私たちは生きているのではないかとさえ思えることもある。

 そういえば小学生のころ、父が私にこう教えてくれた。「自分でないものを自分だと思い込んでいることから苦しみが生じるのだよ」と。
そのときはまったく意味がわからなかった。
 「私はこのように生きて来た。これが私なのだ」と、多くの人が考えているが、それはすべて思い込みだと今ならわかる。それは「私」のまわりに着いている習慣や、ある価値観や、これまでの体験から来る対処法であったりするだけで、それが「私」であるわけではないのだ。

 それを離れた先に待っているのが、絶対的な静寂である「私」なのだ。
 父の「私」は、私の「私」にそれを伝えようとしてくれていたに違いない。

裾野市斎場.jpg


_/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/

<<リンク>>

森になる:PC HP

樹を植え自らが森になり大地をまもる

天龍院 千代田別院
歴史ある厳かな法要

Facebook

コンタクト
shukai755@msn.com

↑クリック

_/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/

posted by Shukai at 11:18| 東京 ☀| Comment(1) | 祈り・儀式・佛教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月21日

座禅、瞑想をすると見えないものが見えてしまうのですが…

_/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/


先日もそのような質問を受けた。その時は私よりも専門の方がいらしたので、軽く受け流したが、いちどきちんと解説しておこうと思う。

まず、日常的でないことをすると、日常的でないことが起きるのは当然なのである。それを特別なこととして、追い求める人もあるようだ。すなわち、予知や霊能といった特殊な能力と思い込むのだ。しかし、そのことに取り合ってはいけない。それは、禅の世界でも「魔境」と呼ばれ、退けられて来た。道元禅師の墓の回りには、小さな石がたくさん取り囲むように並んでいるが、それは魔境に入って発狂死した弟子の墓だと聞いたことがある。

サマーディ(禅定)に入り始めると、心に様々なことが脈絡なく浮かんだり、いろいろなことが見えたり、音や声が聞こえて来たりするが、それを眺めている自分を眺めるというスタンスが肝要なのだ。ヨーガ哲学などでは、それを「観照者」と呼ぶことがある。

また、ヨーガ哲学では馬車の喩えがある。放っておくとどこまでも行ってしまう馬には、手綱をつないで御者の手にしっかりと持たせる必要があると説く。馬車は私たちの身体に喩えられ、軛(くびき)でしっかり馬とつなぐ。御者は理性を表し、心を含めた感覚器官を統御するのだ。そしてその後ろに座っているのが「私」だと喩えられる。

現代風に言うと、ガンダムに乗って操縦しているとイメージするとわかりやすいかもしれない。

image.jpeg


_/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/

<<リンク>>

森になる:PC HP

樹を植え自らが森になり大地をまもる

天龍院 千代田別院
歴史ある厳かな法要

Facebook

コンタクト
shukai755@msn.com

↑クリック

_/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/

posted by Shukai at 18:51| 東京 ☀| Comment(0) | 祈り・儀式・佛教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月13日

脳波の共振ー静寂の共有 with four dogs.

_/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/


そのお宅は、90歳ので亡くなったお母様の初盆に、たくさんのご親戚が集まっていらっしゃった。室内で犬を4匹も飼っていらっしゃる所に多くのお客様、犬たちも興奮気味でワンワン、キャンキャンとたいそう賑やかだった。

いつものように先に法話をさせて頂いて静寂の意味と大切さをお伝えし、読経を始める。儀式の心構えを先にお伝えしてゆったりとした呼吸で読経に入ると、脳波が共振するかのように室内の空気が一変し、深い静寂が訪れるのだ。

読経が終わり、全員が手を合わせて頭を垂れる瞬間には、部屋は間違いなく圧倒的な静寂に包まれる。

終わってご挨拶をすると、ご主人が「犬たちが静かだね…」と奥様に呟かれた。「あら!ホント、ずいぶん静かだこと」と、全員が驚いていらした。

静寂は、子どもだけでなく、犬たちにも伝わるものなのだ。
その静寂の中にこそ、心の平安、安らぎがあり、その平安の中でご先祖様と再会することができるのだ。

image.jpeg


_/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/

<<リンク>>

森になる:PC HP

樹を植え自らが森になり大地をまもる

天龍院 千代田別院
歴史ある厳かな法要

Facebook

コンタクト
shukai755@msn.com

↑クリック

_/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/

posted by Shukai at 17:33| 東京 ☀| Comment(0) | 祈り・儀式・佛教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月24日

静寂の共有 with 7歳

_/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/


 今日の一周忌は、昨年亡くなった2歳のお嬢様宅だった。昨年お伺いした時も、小学校1年のお兄ちゃんは落ち着いて座っていられずにずっとゴソゴソと、足を伸ばしたり横座りしたりため息をついたりしていたのを思い出した。

 今回はお兄ちゃんのお名前を聞いてコミュニケーションを取り、静かでいることの大切さをご両親と、お二人のそれぞれのご両親に向かってゆっくりとお話した。お話したと言っても、話の内容よりも「静かでいる」ことをお兄ちゃんに伝えたかったのだ。

 お茶の稽古に行ったある日、お母様と10歳の女の子が見学に来ていらっしゃった。稽古が一段落したころ、女の子がお母様に「なんでこんなに静かなの?」と小声で囁いたこともお話した。

 知識としての理解ではなく、どんな小さな子でも空気を読むことをお話するころには、いつの間にかお兄ちゃんは静かに座って聞いていた。聞いていたというより、同じ静寂を味わっていたと表現する方がいいかもしれない。その後お経を上げ、振り向いてご挨拶をするまで、ゴソリとも動かないでいたお兄ちゃんに、お母様は驚いていらした。

 お経を終えて、仏様に向かって最後のご挨拶をしている時は、ヨーガの最後のシャバーサナと同様の、茶席と同質の静寂が必ず訪れる。その静寂はどんな幼い子にも、時には室内の犬や猫にも確実に伝わるのだ。

合掌.jpg

_/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/

<<リンク>>

森になる:PC HP

樹を植え自らが森になり大地をまもる

天龍院 千代田別院
歴史ある厳かな法要

Facebook

コンタクト
shukai755@msn.com

↑クリック

_/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/
posted by Shukai at 21:28| 東京 ☁| Comment(0) | 祈り・儀式・佛教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月28日

瞑想についての覚え書

_/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/


 昨今の瞑想流行り、マインドフルネス流行りに対して少し考えを整理しておきたい。

 まず、それらに対する姿勢として二者がある。心理学的アプローチと信仰的アプローチの二つである。
一方は心理学的に、あるいは精神的に効果があるとして行うアプローチ。また一方は、効果は期待せず、ただただ道として歩むアプローチと言えるかもしれない。言い換えれば、前者は瞑想を効果のための手段として捉え、後者は手段と目的が同化していると考えられる。
 信仰的な方面から見ると、前者はいわゆるご利益信仰的な動機が見えて、快くないのかもしれない。瞑想が軍隊にも利用され、殺人のための命中率が向上したと言う話もあるほどである。

 一昨年出席したヨーロッパポジティブ心理学会議2014(ecpp2014)でも、マインドフルネスとラビングカインドネスのどちらが優れているかという発表が基調講演の中にあったが、その着眼点自体が本末転倒である印象が強かった。

 どちらにせよ、瞑想を続けると慈悲心の起きる脳の部位が活性化するので、争いが治っていくという報告もああり、どのような利用のされ方をしても問題はないという立場もある。私にとっての瞑想は筋力を鍛えるトレーニングではなく、呼吸を繰り返したり、美しい不二山を眺めるようなものである。

 また、瞑想には大きく分けて二つのアプローチがあることにも注意したい。一つは心を一つのことに集中させるアプローチ、もう一つは何ものにも集中しないアプローチである。マインドフルネスは前者で、いわゆる「心を無にする」と言われてきたのが後者である。ノイズの多い現代にあっては、一般的に何ものかに集中する方が入りやすいのは当然だが、それこそが瞑想というわけではない。

141017meditation2-thumb-636x358-80478.jpg


_/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/

<<リンク>>

森になる:PC HP

樹を植え自らが森になり大地をまもる

天龍院 千代田別院
歴史ある厳かな法要

Facebook

コンタクト
shukai755@msn.com

↑クリック

_/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/
posted by Shukai at 09:21| 東京 ☀| Comment(0) | 祈り・儀式・佛教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月27日

戒名に母の面影を思い涙溢れる

_/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/


 「父の愛は薄かったのですが、母はとても慈しみ深い人でした」と、その方はおっしゃった。
とある住職からの依頼で、昨年満中陰を執り行った40代の依頼主の方である。その住職からは満中陰の法要と戒名の依頼も考えていらっしゃると聞いたが、半年以上経ってからやはりお戒名を授かりたいとの連絡があったのだ。「慈月◯◯…」とお戒名をつけてお送りした。

 「昨晩、妹と二人で骨壷を開いて、ろうそくを灯してお戒名を開きました」と、電話の向こうからその時の様子をお話しくださった。

 「母の面影そのままのお戒名を拝見して、妹と二人で泣きました。」
 「昨晩の美しい月を眺めて、母が見守ってくれているようで、とても安心しました」

 戒名を付けるかどうか、お二人で何度も何度も相談されたに違いない。最近では俗名のままのお位牌も見受けるが、別の存在になったことが自覚されにくいような印象を受けることも少なくない。
 戒名は本来、存命中に仏門に入った際に拝受する、キリスト教のクリスチャンネームに似たものだが、そのような機会がなかった人が多いので枕経で授けるようになった。戒名によって遺族の信仰心(スピリチュアリティ)が拓かれるという点で、その意義は大きいと言える。

_/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/

<<リンク>>

森になる:PC HP

樹を植え自らが森になり大地をまもる

天龍院 千代田別院
歴史ある厳かな法要

Facebook

コンタクト
shukai755@msn.com

↑クリック

_/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/
posted by Shukai at 13:58| 東京 ☀| Comment(0) | 祈り・儀式・佛教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月16日

最後の願い

_/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/


 昨晩は、私の母と同年代のお母様のお通夜だった。教育者で、困っている人を見たら、放っておけない人だったと電話でお聞きした。控え室に入ると司会者との打ち合わせで、死因は交通事故だと聞かされた。

 ご遺族に戒名の説明をしていろいろお伝えし、どんな亡くなり方であっても誰もが息をひきとる際には、あらゆることをそのまま受け止め、すべてを許して離れて逝くのだとお伝えした。これは、たくさんの方々をお見送りするうちに強くなった確信である。

 そうお話した途端に、大粒の涙をこぼしながらご長女がおっしゃった。「母は亡くなる前に、毎日毎日とても幸せで幸せで、勿体無いくらいだと言っていました。きっとすべて受け止めていたのだと思います」

 ほとんど即死の事故だったらしいが、薄れて行く意識の中ですべてを受け入れ、残していく人たちの幸せだけを祈っていらしたに違いないと、さらに確信が深まった。

 お通夜が済んだ帰りがけにご長男が「気持ちがとても楽になりました」と、胸に手を当てて微笑んみながら見送ってくださった。

_/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/

<<リンク>>

森になる:PC HP

樹を植え自らが森になり大地をまもる

天龍院 千代田別院
歴史ある厳かな法要

Facebook

コンタクト
shukai755@msn.com

↑クリック

_/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/

posted by Shukai at 09:59| 東京 ☀| Comment(0) | 祈り・儀式・佛教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月21日

都心型納墓苑

_/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/


赤坂の一ツ木通りにある「赤坂浄苑」は、都心型の墓苑である。

ステンレスのケースに骨壷を収め、ローラーで内部に納骨される。お参りの時にはコンピュータ制御で、前面に石彫りされたプレート付きのステンレスケースが法要エリアに運び出される。

法要エリアのサイドあるディスプレイには、自動的に戒名が表示される。

このように、最近では「墓」と「納骨堂」の境界線が曖昧になってきている。
もっとも伝統的な墓であっても、墓石の下は石かコンクリートで囲まれたカロートという石室に骨壷を納めるので、埋葬というより実際には納骨である。

「土に還る」というのは、いまやほとんど死語である。

image.jpg

image.jpg

image.jpg


_/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/

<<リンク>>

森になる:PC HP

樹を植え自らが森になり大地をまもる

天龍院 千代田別院
歴史ある厳かな法要

「メルマガ Shukai」
バックナンバー

Facebook

コンタクト
shukai755@msn.com

↑クリック

_/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/
posted by Shukai at 10:49| 東京 ☁| Comment(0) | 祈り・儀式・佛教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする