2015年02月22日

許すことで許される

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 長い人生の中で、どうしてこんな思いをするのだろうと、思うときがあるかもしれない。
 なぜいつも似たような人から、同じようなことをされるのだろうと、悲しくなることがあるかもしれない。
 その原因を自分の中に探ってみると、子どものころに親から受けた仕打ちのせいだと思い当たるかもしれない。しかし、よくよく考えてみると、その親も子どものころに不条理な仕打ちを受けたかもしれない。そしてさらにその親も、その親の親も…

 お経の中に、このような一節がある。

我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋痴
従身語意之所生 一切我今皆懺悔

私が昔からなしてきた様々な悪しき行いは、
すべて始まりもない太古からの貪りと怒りと愚かさを原因として、
身体と言葉と心によってなされたものである。
それら全てを私は今みな懺悔する。

 上は一般的な解釈だが、「悪業」の原語 durkarma は、悪い行いというだけではなく、自分に起きるよくないこと全体を指している。そして、不幸の対局にある幸せも、永遠ではないという視点からはdurkarma 「悪業」といえると解釈できる。

 それはともかく、あらゆる事がらは、「始まりのない、貪り(貪欲)、怒りと智慧のないこと」に由来し、自分の行動や言動や思いに従って生じているというのである。「始まりのない」ということは、誰かや何かを原因とするわけにはいかず、自分の中の、貪りと怒りと智慧のないことを見つめる以外にないのだ。そのことを認め、そしてすべてを許すことで許されるのではないだろうか。

 この懺悔文を唱えて、そしてはじめて経典が開かれるのである。

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2015年02月13日

姥捨山「楢山節考」に思う

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 30代になったばかりのころ観た、映画「楢山節考」(第36回カンヌ国際映画祭グランプリ受賞)は衝撃だった。
 原作者である深沢七郎の「ラブミー農場」を訪れたのは、1970年ころだったろうか。そのころは作品は一編も読んではいなかったが、映画で原作者名を見て当時の記憶が蘇った。

 映画にはいくつも衝撃的な箇所があったが、いちばん話題になったのはなんといっても母を背負って山に捨てにいくシーンだろう。このシーンの撮影のために、主演の坂本スミ子は自らの前歯を短く削ったと聞いた。
 背負われながら母は、木の枝を折って道に落とし落とし、息子の帰り道の目印となるように最後まで気遣いをするのであった。
 映画を観た当時は、実家の老人ホームに勤め始めたころだったこともあり、いろいろと考えさせられた。

 当時は「なんと惨い!」と思ったが、還暦も過ぎて徐々に考えが変化してきた。
 自分の意に反して延命されたり、役割りがないまま社会のお荷物になっていると思いながら生きながらえるより、ある意味いいあり方かもしれないと思うようになってきた。死期が近いと悟ったら森に入り、たったひとりでその瞬間を十全に迎え、自然の中に溶けていく。本人も遺される者も納得し、そのときを受け容れる。これほど「完全な死」はないかもしれないと思えてきたのだ。

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2015年02月12日

日本古来の禁忌(タブー)について

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 日本文化の特徴として、「霽れ(ハレ)と褻(ケ)」を見出したのは柳田國男だった。徒然草には以下のようにある。

「けはれなく、ひきつくろはまほしき」
ふだんも正式の場合も区別なく、(身なりを)きちんと整えていたいものだ。

 「晴れの日」というと、「お目出度い日」と捉えられがちだが、本来の意味は「非日常」を指すので、葬儀もハレと見なす解釈もある。東北地方での葬儀には、親族は晴れ着をまとう地方がいまもあると聞いた。

 湯をぬるくするときに、「水に湯を差してはならない」というのは、亡くなった方の湯灌をする際の作法であるため、死を連想するのを嫌って日常と明確に区分したのだろう。
 「畳の上で新調した履き物で、そのまま地面に下りてはならない」というのも、草履を履いたまま家を出るのは死装束の仏だけだと、死を忌み嫌ったためためである。しかし、嫁入りのときだけは、畳で草履を履いてそのまま地面に下りて嫁に行くというのが正式だったようだ。とはいっても、「結婚は人生の墓場」という意味ではない。日常してはならないことをハレの日には敢えて行い、心のけじめをつけるという文化的な特殊性なのではないだろうか。

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Wikipediaより


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2015年02月11日

消失するタブー/鎮守の杜の激減

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 子ども時代の日常では、いくつものタブーがその生活を規制していた。

夜に爪を切ると親の死に目に会えない。
室内で新しい履き物を履いたまま地面に下りてはならない。
水に熱い湯を差してはいけない。
結婚式のスピーチで「切れる」、「別れる」は禁句だ。
茶碗の御飯に箸を立てるな。
おかずを二人箸で取ってはいけない。

 …などなど、数え切れないほどの禁忌(タブー)が、日常動作を戒めていたものである。

 この禁忌の消失とともに、お正月の改まった空気も希薄となってきていると感じるのは、私ひとりではないだろう。お葬式での静寂が消えていることも比例してきている。最近のお葬式は、「静かにしなければ」という感覚がなくなりつつあるのだ。

 このことは、神社の鎮守の杜の消失と比例しているのではないかと、私の目には映る。戦後のたった30年間で、なんと98.6%もの神奈川県の鎮守の杜が消失したのだ。聖域の消失は、私たちの心の中の聖なる部分の消失でもあるのではないだろうか。

 大切な心を捧げる聖域が激減し、それと反比例して、何かを貰いにいくパワースポットが急増しているように思えてならない。
 
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「神奈川県教育委員会の依頼で1970年代に現地調査した結果では、すでに高木、亜高木、低木、下草がそろった、すなわち最低限の森の生態系が維持されているよう な鎮守の森は、たった40であった。かつては2,850あった鎮守の森が、戦後わずか30年たらずで激減したのである。」(『鎮守の森』宮脇昭,新潮文庫版 p19-20)

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2015年02月10日

「形」の重要性について

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 「◯◯は形だけになった」とは、よく耳にする言葉だ。成立当時の意義や内容が失われたり忘れられたりして,形ばかりのものになってしまうことをこのように表現するが、お葬式でも見受けられることである。だが、その形も最近では崩壊しつつある。

 最近のお葬式での祭壇で、ご遺影が最上段に祀られ、その下段にご本尊、そしてお位牌と棺という配置がほとんどになってきた。本来はご本尊が最上段、ご遺影、お位牌と棺というのがあるべき配置なのだ。
 「そんな形だけに拘らなくても…」という向きもあるかもしれない。実はそういう私も拘らなくてもいいと思っていたのだが、歳とともに考えが変わってきた。

 家庭のお仏壇も最上段はご本尊と両脇侍だけで、お位牌はその段にお祀りするべきではない。何故なら、日常の価値観を持ち込まない、絶対的な「聖なる領域」を自らの意識の中に確保する必要があるからなのだ。それと同じプライオリティで祭壇を配置することで、意識の階層が符号して保持され、意識を向ける方向性に秩序ができると思えるのだ。

 儀式や作法のあり方に解釈を加えると、ある人の解釈、さらにそれに対する解釈…とどんどん分化していく。それを防ぐための、「形」という容れ物にすべてを封じ込めて言葉を介在させずに伝える方法は、ある意味たいへん優れているといえる。途中で理解できない人が伝えても、崩れずに伝わり、数百年のちでも理解できる誰かが現れればすべてわかるという伝え方なのではないだろうか。茶道のお作法や、お道具の配置も同様である。

 実家の寺に初めて出入りした葬儀社が、葬儀終了後の片付けの際、庭箒で室内を掃いていた。急ぎの仕事があり、箒がどこにあるのかわからなかったようだが、「下を上への大騒ぎ」とはこのことを言うのだ。

 日本社会は上下について煩いともよくいわれるが、聖なるヒエラルキーは美に至る整列性を持っている。大切な部分は良い「形」で遺したいものである。

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2015年02月09日

前世の記憶?

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 当たり前のように前世の記憶があるという人もいるが、私にはその記憶はない。

 以前実家の寺にいたころ、山岳信仰の行者に付いて行をしていたことがあった。滝行こそする機会はなかったが、様々な行をする中で、前世についての話が出ることは日常茶飯事だった。日常に起きるふとしたことや、理由なく興味を抱く事柄を端緒に前世を探っていくのだ。運転中に急に割り込んできた車のナンバーの数列をシンボルとして読み解いてみたり、なんの脈絡もなく頭に浮かんだ言葉などを手掛かりに、古い記憶とつないでいった。
 そのようなことをしていくと、何らかのつながりができてきて、ある物語りに仕上がるのだ。そのような見方で世界を見ていくと、辻褄が合う事柄を探すようになり、当然のこととして、思ったとおりの物語りが見えてくるのだった。

 その体験はとても興味がそそられるものだったが、ある日突然その行を離れた。釈尊が、死後の世界や前世については「無記」ーすなわち沈黙で答え、何も語らなかったことを思い出したからだった。確証を得られない戯論(けろん)に耽らず、目の前のことに勤しみなさいという教えだったのだろう。
 前世のことをキッカケに、新たな価値観に目覚めることに異論があるわけではないが、簡単にいってしまえば飽きたのかもしれない。

 そのような前世探索の中で、いまでも不思議に思うことがある。それは、かなり幼少のころから、茶道具などの侘びた品に大きく心惹かれていたということだ。もちろんプラモデルを作ったり、時計を分解したりということも大好きだったが、佳いお道具などに触れると、えも言われぬ心地になるのだった。

 そして、数年前にはじめて茶道のお稽古に行ったとき、いちどお手本の作法を見せていただいただけで、ほとんどそのとおりに自分の身体が動くことに気がついた。そういえば、以前付いていた行者さんから、前世は茶人だといわれたことを思い出した。それが前世のおかげか、あるいは生まれたときから香に満たされ、着物の所作を見て育ったおかげかは知る由もないが、茶席で味わう深い静寂はまさしく私の世界だという実感が湧いてくるのがとても不思議だ。

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茶の静寂/何もなく、すべてがそこにある寂静

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 お茶の稽古のため茶室に伺ったある日、小学六年生の女児を連れたお母様が見学にお見えだった。ひと通りお稽古が済んだときに、その子がこう言った、「なんでこんなに静かなの?」
 まだ駆け出しだが、茶道の醍醐味はその「静寂」にこそあると深く感じている。

  その瞬間の感覚を別の言葉では、「整列している」と表現できるかもしれない。自分の内面にある葛藤やざわめきが静かに収まり、世界の理りに沿ってすべてが整列しているとでもいうような静けさなのだ。
 同質の静寂を、まったく別のときに感じることがある。深くヨーガに入っているとき、お経をあげているとき、能を鑑賞しているとき、瞑想中に雑念が収まっていくときなどである。
 この静寂を感じるときには、同時に大きな豊かさを感じる。すべてが完璧であるとでもいうような、深い平安が泰然と支えてくれているのを感じるのだ。そこには何も無く、しかもすべてがそこにあるとでもいうような感覚を抱く時空間だ。仏教の三法印のひとつである「涅槃寂静」は、このことを指しているに違いない。

 いま世界が求めはじめている「豊かさ」は、この静寂の中に大きなヒントがあるのではないだろうか。

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2015年02月04日

大森貝塚の発見者モースの見た日本

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 今日は大森で、小泉八雲の研究者でいらした学者さんの、その奥様のご葬儀だった。102歳のご長寿だった。その式場に向かう途中の大森駅で、「日本考古学発祥の地」の記念碑を見つけた。

 大森貝塚を発見したエドワード・モースは、日本滞在中に日本人の誠実さや高い美意識に触れ、その素晴らしさを著書『日本その日、その日』で紹介した。

 ある日調査のために何日も宿を空けるときに、彼はある実験を試みた。大切な銀時計や金貨銀貨を番頭に預けてみたのである。番頭はお盆にそれを預かり、大切にお預かりしますと、そのままモースが投宿している部屋の片隅に置いた。「ここにこのように置いておきます」と番頭はモースに告げた。

 当時のたいていの日本家屋は、丁稚や女中衆が自由に出入りできる、部屋に鍵などない造りである。モースは半信半疑で何も言わずに出かけたが、半ばすべて失っても致し方なしと諦めていた。
 数日経って戻ってみると、果たして預けた品は出かけたときのままそこにあったのである。それを見たモースは、それまでの価値観が根底から揺らいだのだった。

呉 善花(拓殖大学国際学部)教授が「防犯意識が薄い安全大国日本の伝統」(リレー・コラム:日本再発見の旅 9:拓殖大学)でこのように書いている。

 明治初期のことだが、大森貝塚の発見で知られるアメリカ人の動物学者エドワード・モースが、瀬戸内地方を旅したある日、広島の旅館に財布と懐中時計を預け、そこからしばらくの間遠出をしようとしたときのことである。旅館の女中がお預かりしますといってしたことは、時計と財布をお盆に乗せてモースの泊まった部屋の畳の上に置いただけだった。
もちろん部屋はふすまで仕切られているにすぎず、鍵や閂などが掛けられてはいない。モースはとんでもないことだと思って宿の主人を呼んだが、主人は平然と 「ここに置いておけば安全です」と答えた。 モースの旅行中にこの部屋を使う客は何人もいるわけだし、女中たちも始終出入をする。不安をぬぐえるわけもなかったが、モースはひとまず実体験を積むことを重視し、そのまま遠出したのである。

 一週間後、旅館に戻ったモースは、宿の部屋のふすまを開けて心から驚き感じ入ったという。そのときのことをモースは次のように記している。

 「帰ってみると、時計はいうに及ばず、小銭の一セントに至るまで、私がそれらを残していった時と全く同様に、ふたのない盆の上に乗っていた」

 モースによれば、欧米のホテルでは盗難防止のため、水飲み場のひしゃくには鎖が付き、寒暖計は壁にネジで留められているのが常だったという。モースはその日の日記に「日本人は生得正直である」として次のように記している。

 「人々が正直である国にいることは気持ちが良い。私は財布や時計に注意しようとは思わない。錠をかけぬ部屋に小銭を置き放しにするが、日本人の子供や召使は一日に何度も出入りするのに、決して手を触れない。日本人が正直であることの最大の証拠は、3,000万人の国民の家に錠も鍵もかんぬきも錠をかける戸さえもないという事実にある」(同前)

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節分に寄せて

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 以前、大阪市内から毎週のように通っていた、奈良県吉野郡の天河神社の柿坂宮司から興味深い話を聞いた。
 後に愛媛県など他の地方にも同様の風習があることがわかったのだが、節分の豆まきの時に、「福は内、鬼も内」と言って豆まきをするというのだ。

 「何ものも排除しない」という日本的な慈悲心からなのか、あるいは「幸も不幸も内にある」という教えなのかそのルーツは定かではないが、その話を聞いてなんとなく嬉しくなった。

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本蔵院の節分(インターネットブログより)


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2015年01月21日

「npo法人地域資料デジタル化研究会」理事長小林是綱氏とのこと

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 忍野に通うようになって、山中湖のほとりにある素晴らしい図書館「山中湖情報創造館」館長の丸山高弘さんをご紹介いただいた。以前は八ヶ岳で様々な文化的コミュニティ活動をしていた方で、山中湖情報創造館では先駆的な取り組みをしていらっしゃる。

 その丸山さんから、昨年末に山中湖情報創造館の理事長でいらっしゃる小林是綱氏とお話させていただく機会をいただいた。小林氏は山梨県笛吹市石和町にある日蓮宗寺院のご就職である。「森になる」理事の仲佐秀雄とも「山梨英和短期大学」でつながりのある方で、図書館関連では全国的にとても有名な方だとお聞きした。
 その小林氏から、「森になる」にご賛同いただき、今年の山中湖情報創造館の企画に何かを絡めて展開してはどうかと丸山館長にお話くださった。

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小林是綱氏


 ひとつは、各分野の名誉教授の蔵書を集めた「名士の図書館」を「地域資料デジタル化研究会」で考えていらっしゃるので、「森になる」理事の尾崎真奈美が以前から別経路で依頼を受けている「名誉教授クラブ(仮)」と連動するというアイディアである。

 いまひとつは、「npo法人 地域資料ディジタル化研究会」で企画していらっしゃる「個人アーカイブ」の企画と、「森になる」で以前から考えている「故人アーカイブ」との親和性である。

 また館長の丸山氏とのその後のミーティングでは、山中湖と忍野周辺の特別な「静寂」にふれるツーリズムなどのアイディアも出た。

 富士山とのコミュニケーションを深めつづけた岡田紅陽が、もっとも美しい富士山の見える場所として別邸を構えた忍野村は、その姿の美しさ以上に、内面深くへと向かう比類のない静寂さにその特殊性があるのではないかと思えるのである。

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2014年12月22日

心を添わせる

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 お葬儀の依頼があると、まずご遺族に連絡をいれ、お戒名のためにお人柄などをお訊ねする。
 ほとんどの場合、式場の手配や様々な手続きで忙殺され、故人に想いを向ける間もない状態が通常である。そんな中で生前のご様子を訊ねると、いろいろな想いが溢れてくる。

 お話を聞いて、しばらく心を故人に添わせると、様々なイメージが湧いてくる。その湧いたイメージを幾つかの漢字に結晶化させ、お通夜の控え室で説明する。するとお聞きしていなかった事柄が、お戒名の文字に現れていることがよくあるのだ。故人のお父様の名前の漢字が入っていたり、話には上らなかったご趣味に関連した文字が入っていたりすると、そのお戒名をごらんになっただけで、ご遺族は涙を流されるというようなことがよく起きる。
 今日のご遺族もそうだった。「岳」という文字を目にした奥様は、声を詰まらせながら「ひとりでよく山に行っていました」と仰った。

 心を空っぽにして、ただただ想いを添わせると、集合無意識のような領域にアクセスするかのように、様々な事柄が心に写るものである。

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2014年12月16日

104歳のお別れ

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 明治生まれの方が本当に少なくなってきた。
 今年(2014年)の2月に、97歳の奥様を見送られた明治43年生まれの温井さんは、今年の10月で104歳を迎えられた。足が少しふらつくものの、耳もよく聞こえお話も明瞭でしっかりしていらっしゃった。奥様の満中陰の際には、戦前から戦中戦後のご苦労話を、奥様との思い出話と一緒にお聞かせ頂いた。奥様の棺にお花を添える際、「もう、本当に最後なんだなぁ…」とポツリと仰った一言が鮮明に思い出される。その温井さんが、奥様の後を追うように、年明けを待たずに亡くなられたのだ。

 今生でのお二人の生活は最後なのだが、仏教には「往生」という言葉がある。「(極楽浄土に)往(い)って生まれる」という意味である。
 私たちは、あの世もこの世も区別のない同じひとつのところからやってきて、ほんのひととき分かたれたこの世を過ごし、また同じひとつのところに還っていくのだ。

 最近では珍しくなった自宅でのお葬式。たくさんのお孫さん曽孫さんたちの心こもったお見送りに、故人の人生のとても幸せだったことが偲ばれた。

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2014年12月01日

柩の中のわたし

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 お葬式での読経がおわり、しばらくすると最期のお別れ「お花入れ」となる。式場の中央に柩が置かれ、私は式場のご本尊と柩を結ぶ線上に立つ。その柩に横たわっているのは、他ならない私自身なのだ。

 柩の中が幼子であれ、ご老人であれ、その場に溢れるエモーションとはまったく別の次元に立つ。ご本尊と私の間には明瞭な「白道」があり、式場ぜんたいがそれに支えらる。「二河白道」は、浄土宗において二元対立を超える、信仰の真髄として表現される道である。

 柩の中に納まった自分を見つめていることがあるかと思うと、またある時は大切な人がその中に納まっていたりもする。お葬式の度、毎回わたしは私の死を体験し、大切な人との別れを体験する。

 浄土宗の信仰では、ネガティヴに捉えられがちな死を、新しい生命をもらう再生へと変容させる。「往生」とは、新しい世界に行って向こうで生まれることを指すのである。

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2014年11月23日

紅陽荘でのお茶会

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 「森になるシンポジウム2014」でお招きしたノルウェーからの来賓お二人を、忍野村にご案内して「紅陽荘」を宿泊所とした。「紅陽荘」は写真家故岡田紅陽の別邸(終の住処とも)である。

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冬の紅陽荘


 邸のご主人山田久百合さんは、今年90歳を迎えられた忍野村古刹の大黒様を勤めていらした方だ。住職だったご主人とご子息に先立たれ、住職の後任が決まったために寺から老人ホームへと今年の夏に移られたのだった。ゲストをお泊めしたいとお願いしたところ、移ったばかりの富士吉田の老人ホームから忍野村に出向いて、紅陽荘のお掃除を丁寧にしてくださった。忍野村では幼稚園の園長も勤め、70年近くずっと人のために尽くして来られた方だ。

 お茶会当日は足が痛いと仰るので椅子に腰掛けて頂いたが、お茶をお出ししたときには正座をなさり、端正な作法で召し上がってくださった。少しご体調が気になったが、最後のご挨拶はお気持ちがよく表れていて、素晴らしいお茶会となった。
 一昨年に先立った、私と同世代のご子息(名は春海)様と点てたお茶を思い出し、こんな茶を点てたかったと仰ってくださった。紅陽荘での茶は、きっとご子息と一緒に召し上がっていらしたに違いない。

 紅陽荘では、雪のない時期は、近所のスコーレという教育関係の数名の方が、毎朝5時に座禅会に来ていらっしゃり、そのお一人が茶道具をご用意くださった。ほかには近くに住むイタリア人のアディと奥様、尾崎真奈美の秘書アルバイトをしている大学院生が参加し、尾崎が席主を務め、私が拙い茶を点てた。

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2014/11/12(水)19:00-21:00


 本当にお元気な方なので、老人ホームの刻み食や会話のない生活は、きっとお辛いに違いない。紅陽荘は車止めから階段もあり、冬には雪かきもたいへんな住まいなので、埼玉にお住まいのご親族も老人ホームの方が安心なさるのだろう。
 誰かがお世話するのは、負担にもなり難しいかもしれないが、何人もの人々が分担して何かお手伝いできないものだろうか。地縁血縁に代わるコミュニティが、緩やかに機能する可能性はないものだろうか。久百合さんには、ずっと紅陽荘に居て頂きたいものだ。

 あまり使われていなかった紅陽荘が、少し輝きを取り戻したようなそんな気がした。

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2014年11月15日

「森になる」とは――活動報告を交えて

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 第3回「森になるシンポジウム2014」
 「森になる」とは――活動報告を交えて(講演:河野秀海)
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